三国志

三国志の終わりとは...Vol.2(-_- )ウンウン

「三国志の終わりとは...(-_- )ウンウン」を投稿したのが平成24年2月29日なので、4年ぶりのVol.2となる(-_- )ウンウン

Vol.1では諸葛亮の死をもって三国志を終了とするのはおかしいのではないか?、と言うのが趣旨である。昼休みにとあるラーメン屋で湯麺を食べていたときに、三国志の事を色々考えていた。そこで思いついたことを述べたい。

三国志演義というのは中国の明の時代に書かれた小説である。明の時代だと既に儒教的思想が定着されているので、演義を読むと儒教的価値観が結構出ている。

本来ならば漢王室の血筋をひく劉備が漢王朝を引き継ぐべきなのに、曹操の魏の力が強大で漢から禅譲と言う名の簒奪を行うとは怪しからんと言うのが中国の価値観である。それと「治極まれば乱れ、乱極まれば治まる。」というのが演義の趣旨であることを見逃してはならない。

日本人の感覚だと強大な曹操の魏に対して、弱小集団の劉備の蜀漢が挑む、それが判官贔屓という感覚で劉備を応援したくなると言ったところである。

なので諸葛亮が死んだ時点で漢の復興は夢と潰えたため、それ以上続けても意味がないというのが日本人的感覚だと思う。それを理解した吉川英治が三国志の執筆で諸葛亮の死をもって終わりにしたと推測される。

とは言っても、司馬懿のクーデターとか、蜀漢の滅亡とか、魏から晋への禅譲の話とか見所は結構あるんだけどね。

雑誌連載中だった横山三国志で一番懸念していたのが諸葛亮の死をもっての終了だった。実際には蜀漢の滅亡まで描かれたのでホッとした(-_- )シミジミ

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【三国志】赤兎馬(-_- )ウンウン

赤兎馬というと呂布が乗っていた馬で、1日千里を走る名馬として有名である。

演義によると初めは董卓が所有していたんだけど、呂布とその養父丁原を離間させるために赤兎馬を用いて呂布を買収する。果たして呂布は丁原を殺して董卓に仕えた。

その後、赤兎馬は呂布を討った曹操の手に渡る。されど赤兎馬の気性が荒く曹操の部下には誰も乗りこなすことが出来なかった。その後、曹操に降伏した関羽に贈呈された。

関羽が孫権に討たれて、赤兎馬は関羽を捕らえた馬忠の手に入ったんだけど、秣を食べずに亡くなったという(-_- )ウンウン

そこで気になったのが馬の寿命である。馬の寿命は25年。稀に40年を超えるらしい。

呂布が丁原を殺害したのが西暦189年。関羽が殺害されたのが219年。関羽の死後、赤兎馬は間もなく亡くなったので219年と推測される。

呂布が赤兎馬を手に入れてから関羽が亡くなるまで丁度30年。董卓が所有していた時期を考慮すると35〜40歳くらい生きたと思われる。関羽の死後間もなく亡くなったというのは、単に寿命だったと推測される。

赤兎馬は汗血馬をイメージしたのではないかという説がある。

汗血馬とは中国の歴史上名馬と呼ばれた馬の種類であり、血のような汗を流して走る馬という意味らしい。中央アジアのフェルガナ地方に存在した大宛という国に生息していたとか(-_- )ウンウン

巨人の星の主題歌「行け行け飛雄馬」の歌詞で「血の汗流せ涙を拭くな」というのがあるけど、「飛雄馬は汗血馬のごとく行け行け」という意味かもしれないね(^_^;)

赤兎馬から星飛雄馬の話になるとは思いもよらなかった(-_- )シミジミ

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【三国志演義】十万本の矢(-_- )ウンウン

これは赤壁の戦いの前哨戦の時、諸葛亮が周瑜の要請により十万本の矢を集めた話である。

周瑜が諸葛亮を亡き者にしようと企み、諸葛亮に一週間で十万本の矢を用意して欲しいと要請したのが始まりである。それに対して諸葛亮は一週間ではなく3日で用意すると答えた。

夜霧に偽装船団を擁して曹操軍へ行った。曹操軍は不審船を確認して多数の矢を射かけた。それにより十万本の矢を集めることが出来たという。

これはもちろんフィクションであるが、元ネタがあるのが三国志演義の面白いところである(-_- )ウンウン

実際の話では、赤壁の戦いの後の話で孫権が夜霧に乗じて曹操軍を偵察してた時、不審船を確認した曹操軍が孫権の船に多数の矢を射かけた。船の帆柱に矢が当たってバランスを失いかけて傾いてきた時、孫権は機転を利かせて矢の当たっていない面を向けて矢を受けることによりバランスを戻して逃げることが出来た。

孫権のエピソードから諸葛亮が十万本の矢を集める話を創作した羅貫中は凄い!と感動するばかりである(-_- )シミジミ

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三国志演義とは(-_- )ウンウン

三国志演義は羅貫中が著した、後漢の黄巾の乱から三国時代を扱った戦国物語である。

120回に分けて一回は桃園の誓いで始まって120回で三国時代の終了までを扱っている。日本では吉川英治の三国志で諸葛亮の死を以て終わりとしていることから、諸葛亮の死後についてはエピローグとして扱う場合が多い。

では演義は三国時代の終了を以て終わりとしているけど、119回で司馬炎が魏から禅譲されて晋が興った時点で終わった感じがする。120回は単なるエピローグというイメージである。

黄巾の乱は西暦184年に起き、晋が興ったのが265年なので81年を119回まで扱って、三国時代の終了までの15年間を120回で扱うことからエピローグという感じがしてならない(-_- )シミジミ

119回のサブタイトルが「仮りに投降し計を巧みて虚話を成し、ふたたび受禅し様に依りて葫蘆を画く」である。前半の部分は姜維が鍾会に投降して漢復興を図ったけど失敗に終わったということ、後半は魏が漢から禅譲を受けたと同様に晋が魏から禅譲を受けたということである。

魏が滅んだ以上、細かく話を続ける意味は無くなったと言うことなんだろうね(-_- )ウンウン

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三国志のスタンス(-_- )ウンウン

陳寿が著した三国志も、羅貫中が著した三国志演義も「劉備贔屓の孫権嫌い」のスタンスである。

陳寿は元々蜀漢の名士、羅貫中の時代は既に儒教の時代であり三国時代は蜀漢正統の考えである。孫権嫌いというのは、孫権が関羽を殺したからである(-_- )ウンウン

劉備贔屓というのは儒教的思想である。本来なら漢の皇族の血を引く劉備が漢を引き継ぐべきなのに、曹操や孫権が勢力を持つのはおかしいといことだろう。これは完全に現実や歴史というものを無視した考えである。

黄巾の乱とか魏の年号が黄初、呉の年号が黄武で始まるけど、これらは漢の時代は既に終わったという意味である。当時の世論も漢の時代は終わったということなので、いくら劉備が漢の復興を謳っても支持が得られなかったのである。

孫権嫌いのスタンスもよく考えると逆恨みも甚だしいと思っている。今の価値観で歴史を語るのは間違っていることは承知である。蜀を得るまでに、孫権から荊州を借り受けることになった劉備だったけど、いざ蜀を得たら孫権になかなか荊州を返そうとしなかった。

戦時だから何とも言えないけど約束は守るべきではないかと思うんだけどね。それと関羽は孫権に対して無礼を働いていたらしい。

三国志を知る上では歴史背景も考慮しなければならないだろう。

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【三国志】豚の子とは(-_- )シミジミ

曹操が「子供にするなら孫権のような者であってほしいものだ。劉表の子は豚の子同然である。」と言ったセリフを思い出した。ここで言う劉表の子とは劉琮のことである。

そこで思ったんだけど孫権はある意味異端児なので、劉琮と比較するのは無理がありすぎだと思う。孫権は兄の後を継ぎ呉を建国した人物である。

劉琮は西暦208年、父劉表の死後、蔡瑁、蒯越らの政治工作により兄を差し置いて後継者となった。その時には曹操の侵攻により降伏し、青州刺史になったという。その後は昇進したらしい。

政治的状況を考えれば劉表が治めていた時代は、蔡瑁、蒯越らの助けがあって成り立っていたし、劉表の死後すぐに曹操の侵攻があったのだから、蔡瑁、蒯越らが劉琮に曹操への降伏を勧めたのは間違っていないと思われる(-_- )シミジミ

僕としては劉琮の行く末を考慮すれば豚の子とは思えない。孫権と比較されたら豚の子になってしまうよな(^_^;)

余談だが演義では劉琮が降伏後、青州へ赴く途中殺害されたという(-_- )シミジミ

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漢の復興(-_- )ウンウン

「漢の復興」と言うと、どうしても三国時代の劉備を思い出してしまう。

実際に「漢の復興」を掲げて成功したのは、後に光武帝となった劉秀である。劉備も漢の復興を目指したけど志半ばで亡くなり、子の劉禅の世代で魏に滅ぼされて願いは完全に頓挫した。

印象に残るのは漢を興した劉邦と、漢復興に奔走した劉備だけど、何故か漢復興に成功した劉秀は印象に残っていない。

よく考えてみると劉秀の活躍を記した小説は聞いたことがない。もしかすると僕だけが知らないのかもしれないけど(^_^;)

やっぱりライバルの存在によるものかもしれない。劉邦だったら項羽とか、劉備だったら曹操、孫権とか出てくるけど、劉秀だと頭に思いつかない。漢を滅ぼした王莽くらいは思いつくけどね(-_- )ウンウン

それと劉邦の場合は色々欠点があり人間くささを感じる。劉備の場合は漢復興がうまくいかなかったからこそ印象に残っていると思う。劉秀は優等生というイメージがあるように思えるけど実際はどうなのだろう。

おそらく中国には劉秀の物語があると思われるけど、日本では浸透しなかったのではと思っている。

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【北斗の拳】残された命(-_- )ウンウン

ケンシロウが相手に秘孔を突いて、死ぬまでの時間を告げることがある。でも、死の宣告の時間がオーバーしているとしか思えない。

スペードの場合は秘孔を突かれた後、ケンシロウに「指を抜いて3秒後にてめえは死ぬ。その3秒間自分の罪深さを思い知れ。」と言われて指を抜かれる。

その後のスペードの台詞は次のとおり
「わぁっ!」「いっいやだ。」「俺は未だ死にたくねぇ!死にたくねぇ!」「死にた..わっ!(ここで上半身が縦に真っ二つになって絶命)」

シンとの闘いでは、ブラッディクロスの形に秘孔を突いて後、1分間の死の宣告をした。

その後、ケンシロウはシンの前にいたユリアが精巧な人形と知り、ユリア自身は投身自殺を図ったと知る。そしてシンは自分が欲しかったのはユリアだったと言った後、自身の身体が崩壊しだす。それまでの時間は1分だとは到底思えない。

サウザーとの最初の闘いでも秘孔を突いた後、3秒間の死の宣告をした。

その時、サウザーは「面白い。その3秒間おれが数えてやろう。」と言った。その時点で既に3秒間は過ぎている。尤もサウザーが3つ数えた後、ケンシロウは極星十字拳により胸に傷を負うけどね(-_- )ウンウン

もしかすると北斗の拳の世界での時間の単位と、我々の時間の単位は別なのかもしれない。

事実、中国三国時代の米の一升は、現在の米の一升よりも少ない。米の量に限らず、三国時代で使われている単位は現在と比べて少なめらしい。

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張飛(-_- )ウンウン

三国志演義で一番痛快なのは張飛の活躍だと思う。

演義で痛快に感じるのは初期で、権力をかさにかかる役人を張飛が木にくくり付け柳の枝で叩くシーンだろう。溜飲を下げるとは正にこのことだけど、実際にやったのは劉備本人である。演義での劉備は品行方正であるため劉備がやってしまってはイメージが崩れてしまう。そのため張飛がやったという表現にしたと思うけどね。

仮に史実どおり劉備が気性の激しい人物に描かれたとしても、張飛がやった方が痛快度が増すと思う(-_- )ウンウン

三国志演義と西遊記で同じなのは主である三蔵法師や劉備は動かない。実際に大暴れするのは孫悟空であり張飛なのだ。関羽は冷静沈着であり張飛の暴走を止める役。関羽の安定した存在感が張飛の活躍を引き立たせていると思う。

後に趙雲、黄忠、馬超らが加わってくるけど、張飛の大暴れるシーンより痛快なものは無い。なので、関羽、張飛がいなくなると精彩を欠く。その代わり、諸葛亮や姜維の活躍が演義の面白さを引き継ぐことになる。

でも実際には張飛の部下にはなりたくない。張飛は自分より目上の人には愛想が良いけど、目下の人には情け容赦が無い。上司としては最低の部類だと思う。

酒による不始末で部下に恨まれ、その部下は呂布に寝返り徐州を奪うよう唆した。呂布はそれにより徐州を強奪、張飛は敗走した。

関羽死後、劉備が呉征伐を決めた。その時、張飛は部下に無理難題を言って、できないと答えた部下に逆上し百たたきにした。それを恨んだ部下は張飛の寝首を欠き呉に逃走した。いかにも張飛に相応しい最期である(-_- )シミジミ

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司馬炎(-_- )ウンウン

三国時代の幕引きをした人物として有名である。

どんな優れた人物かと思いきや特段優れたわけではない。父、司馬昭が亡くなって司馬宗家を引き継いだときから天下統一は手にしたのと同然であった。祖父、司馬懿がクーデターにより権力を確立し、伯父である司馬師、司馬昭と司馬一族の権力は不動のものとなった。

魏王朝から晋王朝への禅譲は本来ならば司馬昭が執り行うものだったし、呉征伐も手筈が整っていたらしい。司馬炎としては何の苦労もしていないわけである(-_- )ウンウン

それでも晋王朝を興してからは善政を敷いていた。泰始年間あたりだね。それが呉を制圧して天下統一してからは政治に飽きてしまい怠惰な生活を送るようになり世の中は乱れるようになった。そこら辺が司馬炎が凡人であるという謂われなのかもしれない。

三国時代は曹操、劉備、孫権といった英傑がたくさん輩出された中、その幕を引いたのが司馬炎という凡人であると言うことが何とも皮肉な結果になったような気がする(-_- )シミジミ

司馬炎が遺した現代でも残っている風習が「盛り塩」である。てっきり宗教的な意味合いがあると思っていたけど、余りにも俗物過ぎて説明する気にもなれない(´・ω・`)

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